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ジャックラッセルテリアを飼っている有名人


奥寺 康彦

奥寺 康彦

1952年3月12日生まれ

飼っている犬 ジャックラッセルテリアのコジロー

トピックより

最近犬を飼い始めました。知り合いの獣医に前から頼んでおいたのですが、ようやく可愛いのが見つかったのです。ジャックラッセルテリアの成犬。その獣医の方もジャックラッセルテリアを飼っていて、彼の犬の名は「ムサシ」。それなら、うちは…もちろん「コジロー」と名付けました。 コジローが我が家に来て以来、僕の朝はコジローの散歩から始まります。でもコジローは、なぜか僕よりも妻と娘のほうが好きみたい。オスだから仕方ないかもしれませんね(笑)。OFFの日もコジローと散歩したり遊んだりしています。家族が増えて、とても楽しいですよ。

ふだん外食が多く、お酒も飲むので、健康には気を遣ってます。あくまでも自分なりに、ですけど(笑)。お酒はもともと好きなほうですけど、ドイツ人はほんと飲みますよ。おつまみとかあまり食べないで、ひたすらビールを飲みまくるって感じ。立ち飲みのバーみたいな店でずっと飲んでるんです。 時間があるときは、ジムに行ってトレーニングします。あとは選手と一緒に汗を流したり、OFFのときに40代・50代が中心の地元のサッカーチームに参加することもあります。 睡眠時間は長いほうですね。たいてい夜11時半にはベッドに入ります。それで5時半か6時ごろ起きて、コジローの散歩です。年とともに多少太りましたが、いたって健康です。

芸名 奥寺康彦
フリガナ オクデラヤスヒコ
誕生日 1952年3月12日
星座 うお座
出身地 神奈川
性別 男
身長 177cm
体重 78kg
ジャンル スポーツキャスター/スポーツ文化人/サッカー解説者
趣味 車とバイクのドライブ
ジャンル別作品 サッカー解説
日本テレビ WOWOW・リーガエスパニョーラ スカパー・ブンデスリーガ
著書
オーバーラップ 中高生のためのサッカー上達セミナー 楽しいサッカー サッカーワールドカップ大百科

「東洋のコンピューター」の異名で知られた日本人初のプロサッカー選手。俊足と強烈な左足を備え、その異名通りの頭脳的なプレーでゴールキーパーのポジション以外ならどこでもプレー出来るオールラウンダーであった。
秋田県鹿角市に生まれた奥寺康彦は父親の転勤に伴い神奈川県に移り住む。サッカーを始めたのは横浜市舞岡中学で友人に勧められたのがきっかけ、その後相模工大付属高(現・湘南工科大付属高校)時代には日本ユース代表としてアジアユース選手権ベスト4進出に貢献、卒業後1970年現在のジェフ市原の前身である古河電工へ入社する。ここで1年目より頭角を現し同年8月29日ベンフィカ・リスボン戦において国際Cマッチながらフル代表デビューも果たした。その後着実に成長を遂げ1976年には第56回天皇杯優勝を達成、更には初のリーグ優勝も成し遂げた後1977年に日本代表の一員として欧州遠征に参加、ここで1FCケルンを指揮したバイスバイラーによって見い出され、日本人として初のプロサッカー選手が誕生する。
ブンデスリーガデビューは1977年10月22日デュイスブルグ戦。その後は主力の座を掴み、シーズン終盤戦には3試合連続で得点を挙げ勝利に貢献、ボルシアMGとのマッチレースを制し優勝に多大なる貢献を見せ、更にはドイツカップも優勝を果たし評価を高めた。翌シーズンチャンピオンズ・カップ準決勝第1戦では優勝候補筆頭だったノッティンガム・Fを相手に素晴らしい同点弾を記録、第2戦で破れたためファイナリストとなる事は出来なかったが、その存在は欧州中に知れ渡ったのである。その後も貴重な戦力として活躍、1980年にバイスバイラーが監督を辞任しその後監督に就任した知将ミケルスの構想から外れ、当時2部リーグにあったヘルタ・ベルリンで1シーズンを送る事となるが、ここで敵として戦ったブレーメンの名将レーハーゲルは奥寺のプレーを高く評価、1部昇格を果たす事となるブレーメンへ引き抜かれ再び輝きを取り戻す事となる。昇格組ながらいきなりリーグ5位の好成績に貢献し改めてその能力の高さを証明、その後優勝争いを演じるチームにとって奥寺の存在は不可欠となり1986年に退団するまでレギュラーとして活躍した。(ブンデスリ-ガ通算235試合25得点)
帰国後は古巣古河電工とプロ契約を果たし日本国内初のプロサッカー選手となって活躍、1987年アジアクラブ選手権決勝ではハットトリックを記録するなど素晴らしい活躍を見せアジアチャンピオンのタイトルを手中にした。引退後は1992年より古河電工のジェネラルマネージャーを勤め、1999年より新クラブ横浜FCのジェネラルマネージャーに就任するなど日本サッカー界のために尽くしている。
Aマッチ通算32試合9得点、先にも述べたフル代表デビューは1970年8月29日ベンフィカ・リスボン戦だが、Aマッチデビューとなったのはその2年後の長沼監督の元1972年7月12日クメール戦。また、Bマッチ、Cマッチ通算すると79試合に出場し19得点を記録している。


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